レポート
茨城県天心記念五浦美術館 首席学芸員中田智則さん インタビュー
五浦と天心、これまでとこれから
茨城県天心記念五浦美術館
http://www.tenshin.museum.ibk.ed.jp/index.html
北茨城の芸術を考える上で、岡倉天心と日本美術院は外すことが出来ない。 当時岡倉天心が東京は谷中から日本美術院を移転させた五浦は、今ではジオパークとしても登録されている。岩礁や崖が作り出す力強い景色が特徴的で、確かに当時岡倉天心が直感的にこの地に移転することを決断したことも人並みの感性であっても分かる気がする。それにしても、当時も今も決して便益でないこの五浦の地で芸術を生み出す状況はどういったものだったのだろうか。そして、それが後世にどう継承されているものなのか。茨城県天心記念五浦美術館の首席学芸員の中田智則さんにお話を伺った。
- 五浦の日本美術院の当時の雰囲気ってどうのようなものだったのでしょうか?
もうそれはそれは危機迫るような雰囲気だったみたいですよ。良く禅僧のようだったなんて言われてますけどね。それくらい岡倉天心はじめ、横山大観、菱田春草、下村観山、木村武山の4名の作家の制作意欲は強かったんですね。東京から来た安田靫彦という後に彼らの精神を引き継ぐ画家なんかも、その様子に圧倒されて引き返したなんてこともあったみたいですからね。
- 岡倉天心という人は中田さんから見てどのような人だったんでしょうか?
一言で言うならば、明治人だったということだと思うんですよね。あの時代、日本を沈ませないためにみんな必死だったんですよね。政治も経済も芸術も。だから、今の時代ではなかなか出来ないと思うんです。あの時代だから生まれてきた人、生まれてきた思想というのもあると思うんです。そういうのが五浦の日本美術院の4名の作家に伝播していったというのは間違いなくあるでしょうね。
- もちろんその後の日本美術に与えた影響は計り知れないですよね。
そうですね。とにかく西洋に負けない新しいもの、具体的に言えば当初は不評だった新しい朦朧体という表現をとことんつきつめていくわけですね。その姿勢やオーラというのが、それ以降の作家に引き継がれていってるのだと思います。だからこそここに美術館が立っているわけですし、岡倉天心や五浦の日本美術院が挑戦した意志を引き継ぎながら、現代において新しい日本画を生み出す作家のサポートや紹介を続けているんですね。
- 歴史の中でそういったことが創出された土地としての北茨城。そこから生まれてくるこれからの芸術という可能性はいかがでしょうか?
そうですね。やはり六角堂というランドマークをはじめ、岡倉天心の邸宅なども今も残されているわけですよね。それは日本近代美術の大きな遺産ですね。日本の伝統絵画の種が撒かれた、歴史的な土地であるんです。でもなぜ歴史が生まれていったかと言うと、やはり岡倉天心を筆頭にこれまでにない芸術を生み出そうと挑戦したからなんです。例え、一時認められないということがあろうともね。そういう姿勢を持ったアーティストが、例えば旧富士ヶ丘小学校のアトリエに入居して、新しい形、それはデジタルやテクノロジーを使ったってもちろん良いだろうし。そんなことが出来れば、非常に面白くなりますよね。
茨城県天心記念五浦美術館
http://www.tenshin.museum.ibk.ed.jp/index.html